※チームのインサイドルポは追って掲載します
(写真=福地和男)
(文=大久保克哉)
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術中にハメたはずが…
捕球から送球までに短からぬ時間を要し、送球の精度と強さも心許ない。そんな小学生の野球ならでは、のトリックプレーがいくつかある。
たとえば、走者二、三塁からの攻撃。二走があえて塁間へ大きく飛び出し、バッテリーからの二塁送球を誘う。そしてその二塁送球の間に、三走が本塁を陥れる。
4年生以下の試合や、高学年でも市区町村大会の序盤戦であれば、ほぼ1点が入ることだろう。全国大会でも守備側の想定になければ、決まる可能性が高くなる。
しかし、この種のトリックプレーに対しても約束事を確認し、練習を重ねているチームもある。誰がどう動いて、いつどこにボールを渡して、どの走者をアウトにするのか――。そのひとつが、大阪の新家スターズだ。
「二、三塁で相手がやってきたら、まずは二塁に投げるフリ(偽投)。それで三塁ランナーを飛び出させてから、三塁に投げて挟殺する」(千代松剛史監督)
自らはそういうトリッキーな攻撃で1点を奪いにいくことはない。けれども、相手が仕掛けてきたら儲けもの。対応術を備えているので1点を阻むどころか、走者を減らしてアウトカウントを増やすことができるのだ。
1対1の対話も重視する千代松監督。時に非情な言葉も発するが、個々の内面まで熟知すればこそ。「どの子にもそんなの、できるわけないです」
その試合でも術中にハメたはずだった。二、三塁のピンチで、相手の二走が塁間中央へゆるゆると出たとき、守る新家はベンチも野手も慌てていなかった。
マウンドの投手はセットを外してから、二塁ベース方向へ距離を詰めながら偽投を入れて、三塁へ送球。そしてまんまと、三走を塁間で挟み込むことに成功した。
すべてが練習通りだった。だが、繰り返してきた練習とは異なる点がいくつかあった。やり直しがきかない本番。負けたら終わりのトーナメント戦だった。
舞台は全国大会の準決勝。2対1でリードの5回裏と、緊迫の勝負が大詰めを迎えようとしていた。何よりも練習時と決定的に違ったのは、大粒の雨が降り注いでいたことだった。台風接近に伴う豪雨で、すでに計22分間の中断もされていた。
そうした中で、投手が三塁に投じたボールが低かった。前のめりになって、それを地上スレスレでグラブに収めた三塁手は、立ち上がるや本塁へ送球。塁間にいた三走は、それを見て切り返す。ランダウンプレーだ――と思われたが、そうはならなかった。
2022年8月13日、全日本学童準決勝(駒沢)。決勝の逆転タイムリーエラーで涙した5年生・貴志の「長かった」1年がここから始まった
三塁手の送球が高く抜けて、ジャンプで届かなった捕手がボールを追いかけていく。その間に走者2人が生還。これで再逆転された新家は、直後の6回の攻撃で跳ね返せずに敗北した。
「オマエのせいや!」
それは1年前の2022年8月13日、駒沢公園硬式野球場だった。全日本学童大会の準決勝を終えた新家ナインは、ベンチ裏で激しく泣きじゃくった。屋根を叩く雨音もかき消す勢いで。首から下げた銅メダルに納得している顔はどこにもなかった。
「…雨で手が滑りました。ロジンとか持って対策しとったらアウトにできてたから、負けたのは暴投を放ったオレのせいやと思います。6年生に申し訳ない…」
ひときわ大きな嗚咽をもらしながら、途切れ途切れにそう話したのが、三塁手で当時5年生の貴志奏斗(きし・かなと)だった。
「正直、トリックプレーもあるかなと読んでたんですけど、ヨッシャー! と思ったら、まさか、ね。言い訳かもしれないけど、雨で手が濡れて…今日はミスもいくつかありまたし、やっぱり、すべてが整わんと全国制覇にはつながらんのかな。さっき、5年生にはハッキリ言いました。『やっぱりキャッチボールが大事や。守備のミス。この怖さを知って練習に生かして、また来年ここに戻ってこないと!』と。6年生はホンマにようやりましたわ」
報道陣に囲まれて話していた千代松監督は、輪が解けてもそこに残った筆者に、こう告げた。
「あの三塁の5年生、貴志は次のキャプテンやる子で、お父さんも社会人まで野球した立派な人や。もともと守備はしっかりしとるし、こんなところで泣いて終わるような子やないんです。だからさっき、お父さんもお母さんもみんないる前で、貴志に言ったんですよ。『オマエのエラーで負けたんや!』って。また来年、必ず戻ってきますから、みとってください!」
父と同級生の想い
あらゆる打球を難なく捌いてアウトにしていく。貴志の安定した三塁守備は大会中に際立っていた。5年生だからと色メガネをかけなくても、特筆したい逸材のひとりだった。
あらためて公式スコアを辿ってみると、それまでは8度の守備機会でノーミス。それがまさか、あのような雨で不可抗力とも言えるようなミス、そして結末を迎えるとは…。
現場にいた貴志の父・款八さんも、相当なショックを受けていた。試合後はほかの保護者や選手らと一緒に監督の話も聞いたはずだが、断片的な記憶しか残っていないという。
「ボク自身もグワァーとなってたんですよね。ホントにキツかった。奏斗は上の学年の試合にずっと出してもらっていて何とか戦力にならないと、という中で、あの悪送球で負けですから…」
近大付高(大阪)と近大を通じて投手。プロスカウトの視線も浴び、メディアにも「ドラフト候補」で登場するほどに活躍した。社会人・日本新薬でもプレーしたが、肘を壊して手術の甲斐もなく、引退。そんな款八さんの野球人生においても、小5の息子の夏ほど酷なひと幕はなかったという。
「正直、心配でした。イップスにならんかな、とか。でも、家に帰って来た奏斗が自分から『これからチームを引っ張っていかないといけない』と。新チームのキャプテンにしてもらって良いきっかけというか、責任感が生まれたんじゃないかなと思います。あのミスや負けのことで、ボクから何かアドバイスしたことはないですね」
帰阪の2日後に始動した新チームは、白星街道をばく進することになる。
猛特訓で緊張も重圧も凌駕した、と言わんばかり。6年生になって全国大会に戻ってきた貴志は、絶対的な守備の安定感を誇った
ジャンプ及ばず、あの貴志からの送球を捕れなかった当時5年生の秀逸な捕手・山本琥太郎は、マウンドにも立つように。あの場面で三塁のバックアップに動いていた当時5年生の左翼手・宮本一希は、マスクもかぶるようになった。
貴志は三番・投手で結果を出していった。マウンドに立たないときには、三塁か遊撃を堅く守る。苦しい場面でも、厳しい練習でも、先頭に立って仲間をリードした。
「また神宮(夏の全国大会)に戻って、やり返す! 今度はどんな相手でも勝って全国制覇する!」
同級生たちも新主将と同じ決意だった。目に見えぬ十字架を背負って一心不乱のキャプテンを、それぞれにプレーで支えた。宮本が回想する。
「奏斗があのエラーを引きずっている感じは何となく、ずっとありました。でも、キャプテンとしてチームを引っ張ってくれていたので、その力になりたいと思ってきました」
十字架を解かれて、また
2023年8月6日。宣言通りに東京での全国大会に戻ってきた新家の1回戦は、あの涙したときと同じ駒沢公園硬式野球場が舞台となった。
南の海には台風があった。試合中に急な降雨もあったが、新家の守りはパーフェクトだった。3回に打者10人でビッグイニングをつくって白星発進。
三番・三塁で先発した貴志は第1打席で中前打(写真上)も、一気に二塁を狙って刺された。登板はなく途中から遊撃に回り、守備機会は1度と目立たなかったが、試合後は晴れやかに笑った。
「楽しかったです! いつもはみんなもっと打てるんですけど、まぁ、勝てば何でもいいと思っています。途中で雨が降ってきたときはちょっと、あのときも思い浮かびました」
スタンドの父・款八さんは試合前から天気を気にかけていたという。フィールドの息子にまた災いが及ばぬよう、祈るような気持ちだったのだろう。
「雨が降ってきたときはボクも正直、イヤでしたね。奏斗もユニフォームで何度も手を拭いていたので、気になっていたんだと思います。でも、雨もこの球場も乗り越えましたし、もうここまで来たら関係ないですね」
全国舞台の初戦で、1年前のトラウマを一蹴した。十字架を解かれて張り詰めていた気が緩んだせいなのか、それともイタズラ好きな神の仕業か。不屈の主将に、またも不運が襲いかかる。
17安打19得点で大勝した2回戦で、貴志も3安打した。しかし、2番手で登板すると、1イニングも持たずに降板。二塁打を2本打たれ、ストレートを含めて2与四球と、本来とは程遠い投球だった。実はその朝から、体調不良に陥っていたという。
幸いに発熱もなく、忌々しいウイルスの感染でもなかった。キャプテンの窮地が、チーム外に漏れることもなかった。千代松監督が回想する。
「熱中症に近い感じやったと思います。もう、あそこまで来たら根性論は必要ないですね。試合後は貴志だけは両親にすぐ預けて、練習も一切させんと、しっかりと休ませてきました」
体調不良は結局、翌々日の準々決勝まで続いた。指揮官は毎夜、横になっている貴志にこうハッパをかけてきたという。
「ええか、あしたも絶対にオマエを使うからな。やり返すためにここに来たんやから。これで試合に出なくて負けたら、もっと悔いを残すぞ!」
球場に入れば、貴志も平然として当たり前にプレーした。ワンサイドとなった3回戦は1安打1打点で、投げては1回と2/3で3安打1失点も無四球。逆転勝ちした準々決勝は無安打で登板もなかったが、三塁、遊撃、三塁、一塁とポジションを移っては飛んでくる打球をすべて確実に捌いた。
大一番に試練の登板
体調が戻った準決勝からも守ってはノーミスを貫き、美技を披露しては笑顔でベンチに戻ってきた。打っても準決勝は先制の打点をマークし、決勝はダメ押しの2点タイムリー。
大会を通じて投手陣の軸になってきたのは、背番号8の右腕・山本だった。貴志はその山本の負担と球数を減らすべく、主に下位打線や大差リードの場面で登板してきた。ある意味、気楽に投げられたはず。だが、日本一をかけた大一番は違った。
2回戦から体調不良もプレーを続けた。決勝は2巡目の相手クリーンアップと勝負することに
『オマエ自身の力で優勝をつかみ捕れ! ここが勝負や! 去年の借りを返す絶好のチャンスや!』
1年前の幕切れを知る者には、指揮官のそんな檄も聞こえてくるような投手交代だった。2点リードの3回表、二死。大会3本塁打中の三番打者を迎えたところで、背番号10がマウンドへ。投じるボールはまだ明らかに、本来のスピードやキレではなかった。
4回には四番打者に一発を浴びて1点差に迫られた貴志は、以降も二塁打を2本打たれた。それでも、指揮官はベンチを出る素振りもなかった。するとマウンドの主将は、一発けん制で2度までも走者を刺し、リードを守ったまま山本へバトンを託した。
「打てなければ足がある。打たれても守備がある。全部を整えんとね」
日本一に輝いた直後、そのように語った千代松監督に後日、本調子でない貴志を決勝のマウンドに上げた真意を問うた。
「やっぱりどこかでね、しんどい思いもしてガマンせんと、勝てんなと思ってました。貴志がホームラン打たれてからは逆に開き直って、同点で振り出しでもええ、と。あの4回を貴志が投げ切ってくれたら、あとは山本を戻して0点に抑える。打線もあと3点から5点は取れるという自信がありました」
冷静な分析に勝算もあった上での投手交代。第三者が勝手に描いたような美談ではなかった。しかし、幕切れは指揮官も野球の神様も想像できないようなものとなった。
日本一を決めた美技(上)、直後にはベンチの指揮官を向いて咆哮(下)
4点リードで6回表、二死一塁。五番打者が放った打球は、三遊間をあっと言う間に抜けそうな鋭いゴロだった。これに体ごと飛び込んでグラブに収めた三塁手の主将が、すぐさま立ち上がるや、こん身の力で一塁へ送球。そして一塁塁審の右手が挙がるや、貴志も千代松監督も両手を高々と掲げて何かを吠えた。どちらの頬も涙が伝っていた。
もはや2人の間に、多くの言葉はいらなかった。
「奏斗! ホンマに良かった!」
歓喜に沸くフィールド。保護者や関係者に報道陣らも入り混じる中で、指揮官は主将に一言だけ発して手と手を強く握り合った。
元社会人投手の父に珍しく称えられると、子どもの顔に戻った
父・款八さんは涙が止まらなかった。「奏斗の試合のスローイングミスは結局、1年前のあの1個だけなんですよ。自分でがんばって、よく乗り越えましたね。人から言われたことしかできないようじゃダメ。社会人までいろんな選手を見てきましたけど、自分で考えてできる選手がやっぱり一番強い」
そういう哲学から、愛する息子の野球にはあえて深入りをしてこなかった。小1で自分から「野球を始めたい」と訴えてきた際には、「それなら、一生懸命にやろうか」とだけ言った。
以降も先回りして、手取り足取り教えたり、心の持ちようや生き方を指南した覚えもない。野球のことで叱ったこともなければ、逆に褒めたこともない。でもいつの間にか、大人もたじろぐような精神力を携えて、堂々と金メダルに輝いた。気付けば、あの涙の敗北から1年間、息子が引っ張ってきたチームは無敗のまま日本一になっていた。
「よくやったな!」
息子の頭に手をやると、褒め言葉が自然に口をついた。そのままカメラに向かってふたりでしばらく微笑むと、今度は息子のほうが快活に話し始めた。
「この1年は? 長かったです。あらためて将来は? あまり先のことは考えてないです。でも、お父さんには負けたくないです! お父さんのような投手に? いえ、ボクは三塁守備を極めたいと思います」